金融機関が破綻したとき、どのように処理するのか。これは制度論だけではなく、実際に危機が起きたときに試される問題です。日本では戦後にも、証券不況、バブル経済の崩壊、信用組合の大量破綻、住宅金融専門会社の破綻、地方銀行の相次ぐ破綻、そして大手銀行・長期信用銀行の経営危機という、いくつもの金融危機を経験しました。

そのたびに、金融当局は日本銀行による特別融資、救済合併、事業譲渡、預金保険機構による資金援助、受け皿金融機関の設立、ブリッジ・バンク、特別公的管理、公的資金による資本注入など、さまざまな手段を組み合わせて対応してきました。

この歴史をたどると、日本の信用秩序維持政策が、「金融機関を倒産させない」という発想から、「金融機関が破綻しても金融システム全体を守る」という発想へ変化していった過程が見えてきます。

戦後日本で最初に大きな問題となった「証券不況」

戦後の日本経済は高度経済成長によって急速に発展しました。企業活動が拡大し、株式市場も活況を呈するようになります。しかし、株価が上昇し続けるとは限りません。

1960年代半ばになると株価が低迷し、証券会社の経営環境が急速に悪化しました。いわゆる証券不況です。

株価の下落は、単純に「株を持っている人の資産が減る」というだけではありません。証券会社は顧客から預かった資産を運用し、金融市場でさまざまな取引を行っています。市場が急速に悪化すると、証券会社の経営そのものが揺らぎます。

当時は投資信託の解約や、証券会社が顧客に販売した金融債などをめぐって取り付け不安が発生し、それが証券会社全体へ波及する危険が生じました。株価を支えるため、日本共同証券や日本証券保有組合などの仕組みも設けられましたが、株価低迷は続きました。

ここで登場した重要な仕組みが日銀特融です。

日銀特融――「最後の貸し手」が登場する

金融機関が一時的に資金不足に陥った場合、日本銀行が緊急的に資金を供給することがあります。これが日銀特融です。

証券不況の際には、山一証券などに対して主取引銀行を通じた日銀特融が実施されました。資料によれば、山一証券に対しては興銀、富士、三菱の各行を通じて282億円、大井証券に対しては三井信託・興銀を通じて53億円が供給されました。担保は証券会社の振出手形などで、事実上無担保に近い融資だったとされています。

ここで大切なのは、日銀特融が「経営に失敗した企業を助けるためのお金」だと単純に考えてはいけないことです。

金融機関が資金繰りに詰まった場合、その金融機関の破綻が他の金融機関や市場へ連鎖する可能性があります。そこで中央銀行が緊急的に流動性を供給し、連鎖を防ぐことがあります。

つまり、

金融機関を助けることが目的なのではなく、金融システムの連鎖的な機能停止を防ぐことが目的

なのです。

実際、このときの日銀特融は、その後景気が回復するなかで最終的に全額回収されたとされています。

この経験は、後の金融危機における「最後の貸し手」の考え方を理解するうえで重要な歴史的事例です。


バブル崩壊――金融危機が「不良債権」という形で現れた

1990年代に入ると、日本の金融危機はまったく別の姿を見せるようになります。

バブル経済の崩壊です。

バブル期には、土地や株式などの資産価格が上昇し、それを背景に金融機関から大量の資金が不動産関連分野などへ流れました。しかし、地価や株価が下落すると、貸し出した資金を回収できなくなるケースが増えます。

こうして金融機関のバランスシートに大量の不良債権が蓄積しました。

不良債権の問題は非常に厄介です。

銀行が100億円を企業に貸していても、その企業が返済できなければ、帳簿上の「100億円の貸出金」は本当の意味で100億円の資産ではありません。

100億円を貸した銀行は、

「これは資産だ」

と考えていても、実際には回収できないかもしれない。

この差が積み重なると、金融機関の自己資本が毀損し、経営の健全性が失われていきます。

しかも、不良債権を処理するためには損失を認識しなければなりません。処理を先送りすれば、表面上は金融機関を存続させられても、問題そのものは消えません。

日本の1990年代の金融危機は、まさにこの問題が長期間にわたって積み重なった危機でした。

最初は「救済合併」で対応した

バブル崩壊後、最初に弱体金融機関の破綻が表面化すると、政策当局は地域の金融機関などに救済合併を働きかけました。

預金保険制度も活用され、1992年には伊予銀行による東邦相互の合併などが行われています。

つまり、

経営が悪化した金融機関を、比較的健全な金融機関が引き取る

という方式です。

これは金融機能を継続するという点では合理的です。

しかし、金融危機が深刻化すると、この方法にも限界が現れました。

なぜなら、救済する側の金融機関まで余裕を失っていったからです。

問題を抱えた銀行を別の銀行に引き取らせれば、破綻を回避することはできます。しかし、引き取った銀行まで不良債権を抱えてしまえば、問題を先送りしただけになってしまいます。

そこで次第に、破綻金融機関を清算したうえで、その営業を別の金融機関に譲渡する方式などが採用されるようになりました。


信用組合の大量破綻――地域金融にも危機が広がる

バブル崩壊の影響は、大手銀行だけにとどまりませんでした。

とりわけ中小企業金融を担っていた信用組合などの経営が悪化します。

バブル期に積極的な融資を行った金融機関では、地価下落によって担保価値が急落し、融資先からの返済も難しくなりました。

1995年には東京協和信用組合、安全信用組合が破綻し、その後コスモ信用組合、木津信用組合などの破綻へと広がりました。

しかも、コスモ信組や木津信組では預金流出が激しく、預金の払い戻しに必要な資金を確保するため日銀特融も実施されています。

ここで興味深いのは、金融危機が「銀行の財務問題」から「預金者の心理」の問題へ変化することです。

銀行が危ないという噂が広がる。

↓

預金者が「早く預金を引き出そう」と考える。

↓

預金が一斉に流出する。

↓

銀行の手元資金が足りなくなる。

↓

本来は資産を持っていても、すぐに現金化できず支払いができなくなる。

このように、金融機関は「信用されていること」そのものが経営基盤になっています。

だから金融危機では、財務内容の悪化だけでなく、信用不安そのものが危機を増幅させます。


受け皿金融機関を「新しくつくる」という発想

問題が深刻になると、「どこかの銀行に引き取ってもらう」という従来型の方式では対応できないケースも出てきました。

そこで1995年、東京協和信用組合や安全信用組合などの処理を契機として、東京共同銀行が設立されました。

これは、破綻した信用組合を引き受けるための「受け皿金融機関」です。

1996年には預金保険機構からの出資も加えられ、整理回収銀行へと改組されていきます。

この仕組みは、金融機関の破綻処理を考えるうえで非常に面白いものです。

普通の企業なら、倒産した会社を別の会社が買収するという発想になります。

ところが金融危機では、

「買収してくれる会社がないなら、破綻処理のための会社そのものをつくる」

という方法が必要になることがあります。

金融システムを維持するためには、通常の市場取引だけでは解決できない場合があるからです。


住専問題――不良債権問題が社会全体の問題になる

バブル崩壊後の金融危機を象徴するもう一つの問題が、住宅金融専門会社、いわゆる住専の問題です。

住専は住宅ローンなどを専門に扱う金融機関でしたが、バブル期には不動産融資に深く入り込みました。

ところが地価が下落すると、不動産関連融資の回収が困難になります。

資料では、1995年6月末時点の住専の不良資産について、大蔵省の立入調査の結果、7社合計で8.4兆円、そのうち回収不能額が6.4兆円にも達したとされています。

ここで問題になったのが、

誰が損失を負担するのか

という問題でした。

住専を設立した金融機関、融資を行った一般金融機関、農林系金融機関、そして最終的には政府・国民の負担をどうするのか。

不良債権問題は、単なる銀行経営の問題ではなく、損失を社会の誰が負担するのかという政治・社会的問題へ変化していきました。

1996年には住専処理関連法が成立し、公的資金の投入を含む処理が進められました。農林系金融機関の負担などをめぐって激しい議論が生じる一方、最終的には公的資金の投入によって処理への道筋がつけられました。

ここには金融危機の本質的な難しさがあります。

金融危機では、損失そのものを消すことはできません。

問題は、その損失を、

  • 金融機関が負担するのか
  • 株主が負担するのか
  • 経営者が負担するのか
  • 他の金融機関が負担するのか
  • 預金者が負担するのか
  • 政府、つまり公的資金が負担するのか

ということです。

破綻処理とは、実は「損失の消し方」ではなく、損失を誰が、どのように負担するかを決める作業でもあります。


地方銀行の破綻――「護送船団方式」の限界が露呈する

金融危機が長期化すると、地方銀行にも問題が広がりました。

1995年の兵庫銀行の破綻から2000年の新潟中央銀行の破綻まで、地方銀行の破綻が相次ぎ、日銀特融や預金保険機構による資金援助などが頻繁に行われました。

処理方法も一つではありません。

新しい受け皿銀行を設立して事業を承継させる方式、管理銀行へ移管して清算を前提とする方式、複数の関係銀行に営業を分割譲渡する方式、経営不振銀行同士を合併させる方式、金融整理管財人による公的管理を経て営業譲渡する方式など、状況に応じてさまざまな手法が採用されました。

これは、金融機関の破綻処理が次第に「一律の救済」から「ケースに応じた処理」へ変化していったことを示しています。


大手金融機関の破綻――金融危機が国家的問題になる

そして1997~1998年、日本の金融危機は決定的な局面に入ります。

山一証券など大手金融機関の破綻に加え、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行など、大手金融機関にも経営危機が広がりました。

ここまで来ると、問題は一金融機関の破綻ではありません。

信用不安によって銀行が貸出を抑制する信用収縮、いわゆるクレジット・クランチが発生し、企業の資金調達そのものが難しくなります。企業から見れば、利益を上げていても銀行から融資を受けられなければ事業を続けられません。

金融機関の危機が、

金融機関 → 企業 → 雇用 → 家計 → 消費 → 経済全体

へ波及する可能性が出てきます。

この段階になると、金融行政は「銀行を助けるかどうか」という問題を超えて、経済全体の信用循環をどう維持するかという問題に直面します。

金融再生関連法と特別公的管理

そこで1998年10月、金融再生関連法や金融機能早期健全化法などが成立し、破綻処理と金融機関の再生を支える大規模な仕組みが導入されました。

そこでは、預金を保護するための措置、破綻金融機関を引き継ぐ受け皿機構やブリッジ・バンク、金融機関の資本を強化する措置などが組み合わされました。

さらに、破綻によってシステミック・リスクが発生する可能性がある大手金融機関については、特別公的管理、すなわち一時国有化という強力な手段も採用されました。

1998年の日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の破綻では、この特別公的管理が実際に適用されています。

ここまで来ると、金融危機への対応は通常の企業倒産処理とは完全に異なる世界に入ります。


ペイオフ凍結という「時間を買う政策」

金融危機が続く中で、預金保険制度についても重要な措置が取られました。

通常、金融機関が破綻すれば、預金保険制度に基づいて一定範囲の預金が保護されます。しかし、金融危機が広がっている状況で一気にペイオフを実施すると、預金者の不安をかえって強める可能性があります。

そこでペイオフの全面解禁を延期し、預金者への保護を一定期間強化する措置が採用されました。

これは一見すると「問題を先送りしている」ようにも見えます。しかし、金融危機では時間を確保すること自体に意味があります。

金融機関を再編し、不良債権を処理し、受け皿を探し、資本を強化するには時間が必要です。

したがって、

ペイオフの延期=単なる救済

ではなく、

金融システムが一斉に動揺することを避けながら、処理の時間を確保する

という側面がありました。資料では、決済性預金についてもペイオフの全面解禁がさらに延期された経緯が示されています。


最後に残った巨大な問題――不良債権

金融機関の破綻を処理しても、それだけでは金融危機は終わりません。

根本には大量の不良債権が残っているからです。

資料によれば、全国銀行では1992~2000年度に約70兆円規模の不良債権処理が実施されたにもかかわらず、2001年3月末時点でも金融機関の不良債権は約43兆円に達していました。

この数字を見ると、不良債権問題がいかに長期化したかが分かります。

不良債権処理とは、単に帳簿から数字を消すことではありません。

回収できる債権なら回収する。

回収不能なら損失として処理する。

企業を再建できるなら再建する。

再建できないなら事業を整理する。

必要なら債権を売却する。

このような作業を一つずつ進めなければなりません。

つまり金融危機からの回復には、

破綻処理+不良債権処理+金融機関の資本強化+企業の再生

を同時に進める必要があります。

金融機関だけを救済しても、貸出先企業の問題が解決しなければ、再び不良債権が発生するからです。


危機対応には「副作用」がある

金融危機に対する政策は必要ですが、手厚ければ手厚いほどよいわけではありません。

ここで登場するのがモラル・ハザードです。

政府や中央銀行が金融機関を何度も救済すると、金融機関や預金者が「危なくなっても最終的には助けてもらえる」と考える可能性があります。

そうなると、金融機関の経営規律が弱くなる可能性があります。

資料も、信用秩序維持政策が過度に手厚くなり、金融機関の救済策が安易に発動されれば、モラル・ハザードを引き起こす可能性があると指摘しています。そのため、金融機関の淘汰を通じて金融仲介機能を健全化することや、預金者が金融機関を選別する自己責任の原則とのバランスが重要になります。

これは非常に重要な問題です。

危機時には「潰さないこと」が重要になります。

しかし、平時には「潰れる可能性がある」という市場規律も重要です。

したがって金融政策には、

危機時の安全網

と

平時の市場規律

という、一見すると反対方向の二つの要請があります。

この二つをどう両立させるかが、信用秩序維持政策の難しいところです。


信用秩序維持政策と金融政策は同じではない

もう一つ重要なのが、信用秩序維持政策と金融政策の関係です。

金融政策は、基本的には物価や通貨価値、景気などに関係するマクロ経済政策です。

一方、信用秩序維持政策は、金融機関や金融システムの安定を維持することが中心です。

両者は目的が異なります。

しかし、現実には完全に切り離すことができません。

たとえば、金融機関が危機に陥ったときに中央銀行が大量の資金を供給すれば、金融システムの安定には役立つ可能性があります。しかし、状況によっては金融緩和が過度になり、物価上昇につながる可能性もあります。

逆に、物価安定のために金融引き締めを強化すると、資金調達環境が厳しくなり、経営の弱い金融機関に負担がかかることもあります。

つまり、

金融システムを安定させること

と

通貨価値・物価を安定させること

は、基本的には両立を目指すべきですが、政策運営の局面によっては緊張関係を持つことがあります。資料も、両者は本来密接に関連する一方、過度な銀行救済融資がインフレの温床になる可能性などにも注意が必要だと指摘しています。


日本の金融危機から見えてくるもの

日本の戦後の信用秩序維持政策を振り返ると、対応方法は次第に複雑になっていきました。

証券不況では、日銀特融によって金融機関の流動性危機を抑えることが重要でした。

バブル崩壊後には、救済合併や事業譲渡が行われました。

信用組合の破綻が広がると、受け皿金融機関が設立されました。

住専問題では、公的資金を含む損失処理が必要になりました。

地方銀行の破綻では、複数の処理方式が使い分けられました。

大手金融機関の危機では、ブリッジ・バンク、資本注入、特別公的管理など、より強力な制度が導入されました。

そしてその背後では、長年にわたる不良債権処理が進められました。

この流れを一本の線でつなぐと、

流動性危機への対応

から

個別金融機関の破綻処理

へ、

さらに

金融システム全体の再建

へと政策の視野が広がっていったことが分かります。


「潰さない金融」から「秩序ある退出」へ

日本の金融危機の歴史で特に興味深いのは、金融機関に対する考え方そのものが変わっていったことです。

かつては、金融機関を破綻させること自体を極力避け、他の金融機関による救済合併などで処理することが重視されました。

しかし、バブル崩壊後には、金融機関自身が不良債権を抱え込んでいたため、すべてを救済することがかえって問題を長引かせる可能性が明らかになりました。

そこで、

「金融機関を守る」

という発想から、

「必要な金融機能を守りながら、経営に失敗した金融機関は退出させる」

という発想への転換が進みます。

これは金融市場の自由化とも深く関係します。

競争を促進するなら、金融機関にも経営上の自己責任が求められます。しかし金融機関には公共的な機能があるため、通常企業と同じように完全に市場任せにすることもできません。

そのため必要になるのが、

市場規律+金融監督+預金保険+最後の貸し手+破綻処理制度

という組み合わせです。

金融危機の歴史は、この組み合わせをどこまで、どのように設計するかをめぐる試行錯誤の歴史でもあります。

金融危機は「お金がなくなる危機」ではない

最後に、金融危機について一つ重要な見方があります。

金融危機は、単純に「お金がなくなること」ではありません。

むしろ、

誰が信用できるのか分からなくなること

が危機の核心です。

銀行が銀行を信用できない。

銀行が企業を信用できない。

預金者が銀行を信用できない。

投資家が証券会社を信用できない。

市場参加者が金融システムそのものを信用できない。

そうなると、本来存在している資金があっても、それが動かなくなります。

だから金融危機では「流動性」が極めて重要になります。資産が存在していても、それをすぐに現金化できなければ支払いはできません。そして信用が失われれば、通常なら簡単に調達できる資金さえ調達できなくなります。

この意味で、信用秩序維持政策とは、単に金融機関を救済する政策ではありません。

「信用」という金融システムの見えないインフラを維持する政策

なのです。

日本の証券不況からバブル崩壊後の金融危機までの歴史は、そのことを非常に鮮明に示しています。危機が深刻になるほど、政策当局は「一つの金融機関をどうするか」から、「金融機関同士のネットワークをどう維持するか」、そして「企業や家計まで含めた経済全体の信用循環をどう回復させるか」へと視野を広げざるを得なくなりました。